「日本の伝統」教育が地域の伝統を破壊する

私の故郷の町には開店祝いの花を通行人が持ち帰るという伝統がある。今はやりのもったいないの精神にそった現代にも十分に価値のある伝統である。しかし、これを日本の伝統と言ったら他の地域の人に怒られるだろう。しかし、関西地方で始まった節分の日に巻き寿司を恵方の方角を向いて食べるという伝統は、今や日本の伝統と化した。西尾幹二は森は存在せず木の集合で木も松やらぶなやらいろいろな種類のものがあって、松でもそれぞれ一本一本は違う松なのだと言った。伝統もそうだと思う。雑煮が究極の例だが、雑煮の具は地方でみな違う。共通なのはもちを食うことだけ。もしそこでとある一種類の雑煮だけを日本の伝統と決めてしまったら他の雑煮は日本の中の文化であるにもかかわらず日本の伝統になれないのだ。学習指導要領に決められた日本の伝統が自分の故郷で行われていないものだったら自分の故郷がニセ日本のように思え故郷を否定するようになるのではないのか。国家が伝統に口ざしするとき、これまでの地方の伝統が破壊され国家が新しく思いついた伝統に再構成される時ではないだろうか。日本が様々な個性的な木が群生していた自然林から松だけの没個性の人工林に変わることが恐ろしい。 
今日もおばさんが開店した店から花を取ってこれますように。

映画「狼少女」を見た。感想はこちらにあります