「右傾化」言説によって「右傾化」は作られた

 中3ぐらいから現在に至るまで継続して他の人の言うところの「ネット右翼」のウォチャーをしてきた。最近は忙しいので引退している。

 ネット右翼ウォチャーから言わせれば「若者の右傾化」など怪しいものである。

 そもそも、右傾化するも何も、どんだけの若者が政治に関心があるというのだろうか?

ある領域で目立つことと多いことは違うことがある。東京大学は民青の活動拠点の一つだが知り合いの東大生は民青に対して否定的であった

そもそも、いわゆる「ネット右翼」は金太郎飴ごとくみな同じなのだろうか?あまりにも画一的に見すぎていないだろうか?

ある「ネット右翼」は昭和維新を肯定的に書くだろう、ある「ネット右翼」はコミンテルンの策略と書くかもしれない。

ある「ネット右翼」はグローバリゼーションを支持し、ある「ネット右翼」はグローバリゼーションを批判している

ある「ネット右翼」は維新政党・新風を支持し、ある「ネット右翼」は自民党内で「伝統」という言葉を愛する人々を支持するだろう

上野陽子の「<癒し>のナショナリズム」によれば「史の会」という保守系の勉強会に参加する若い世代にとって「天皇」はたいした意味を持ってないようだが、「ネット右翼」の中には「天皇崇拝者」もいる

彼らは多様なのだ(だったのだ)。なぜ括弧書きで「だった」のか。それはあることで多様性が奪われ続けた姿が今の「ネット右翼」なのだ

それぞれの人間に一つの団結感・一つの共通アイデンティティを与えたのはまさしく「右傾化」言説ではなかったのか。

「あいつらは全員ネット右翼だ」と宣言することで初めて、彼らは仲間意識を持つ。なおかつ、自分とその仲間が批判されているのだから一緒に反論しなければならない。

その瞬間、意見のすり合わせが起こるのだ!!

その瞬間、初めてひとつの「ネット右翼像」が実体化するのだ!!

ネット右翼」達は、まさしくエドワード=サイード言うところのオリエンタルではなかったのか。自らが何者かを語ることを許されず、勝手に他者に名づけされる存在。そして彼らは、敵の言説を内面化することによって、初めて自らを語りえたのではないか。

「右傾化」言説の前に「右傾化」は全くなかったとはいわないが、「右傾化」言説によって「右傾化」が実体化し拡大したのは間違いないのではないか