「不条理殺人」って??

カミュなんて知らない」を見てきました。先週は、「単騎、千里を走る」を見てきましたが、それよりもずっしりきたというか、腹わたをえぐられたという感じです。特に前半、文学評論(厳密にいうと、映画評論)を映像で見た気がして、これほど悩ませる映画はないと思いました。「異常」なのか「正常」なのか・・・。 今度、名鉄東宝で「ゴッド=ファーザー」を見てくる予定ですが、古典的な映画を見たか見ていないかで面白さが変わるかなと思います。でも、私みたいな、古典を全く見ていない人間も楽しめます。
「不条理殺人」、どんなけ悩んでも理解できないです。だから、「不条理」なんですが・・・。道端の石を蹴るのと、同じ感覚で人を殺したことになります。私たちは、たまに道端に転がった石を蹴りたくなりますが、これはなぜなのでしょうか。一つはむかむかして、その気持ちを発散する為に石を蹴ったというのが考えられます。「むかむか」つまり「欲求不満」つまり「退屈」です。ただ、「退屈」という気持ちが一つの動作を起こすのではなく、目の前に石があるという認識、蹴ったことがあるという記憶など自分の回りを取り巻くものが「欲求不満」を行動に導くということです。しかし、私たちはむかむかした時だけに石を蹴ってるでしょうか?実は、何も考えなく、厳密に言えば興味関心が向いたから蹴るということではないでしょうか。それが誰に当たろうが、そこには関心はありません。殺すことに、関心があるのであって、死体には関心を持たなくて、もちろん見つかったあとどうなるかは完全に頭にありません。 もし、これが「真」だと仮定して(私は学者ではない。ただの素人の勘です)、これが現代の病理と言えるでしょうか。なぜ、石を蹴るのではなく、殺人だったかと言えば彼を取り巻くものが導いたといえそう、例えばゲームとか、なのですが、ゲームより実際の殺人の方がより現実味があり、それを思うと統計上一番犯罪が多い(多分、殺人も多い)1960年代の方が「不条理殺人」が多かったのではないかと思います。ただ、人々が関心がなかっただけで。カミュの時代からの病理と言えるのではないでしょうか。犯罪が多かった時代、若者に「大義」が与えられていました。安田講堂事件・浅沼代議士殺傷事件・・・。そして、心理学が進んでいなかったがゆえに、若者の「心の闇」を分析することが不可能であった。だから、報道では、「心の闇の病理」など報道できなかった。しかし、今、犯罪が減少し一つ一つの犯罪に費やせる報道の余裕ができ、心理学も発展したから、「心の闇の病理」が報道に登場しました。私たちは、犯罪現場に今も昔も立ち会わせないから、直接「不条理」かどうか確かめることはできません。報道を頼るしかないのです。犯罪や若者が変わったのではなく、報道が変わったのです。ゆえに、私は「今の青年は・・・論」が好きではないのですが。

本当にいろいろ考えさせられました。いや、いろいろ考えました。そして、最後の「殺害シーン」シーンにはどきもをぬかれました。架空と現実が交差します。

最後に、一言二言。私は、少年法などの厳罰化に反対です。なぜなら、人は人を殺そうと考える時、若しくは犯罪を起こそうと考える時、自らは少年法の範囲内かどうか自分は死刑になるのか考えたりはしないからです。少年院を出てからもう一度犯罪を犯す少年少女は約一割(「教育には何ができないか」広田照幸より)で多いかどうかはわかりませんが、大人と同様に刑務所に入れなくてもほとんど問題ない(少年院ですら再犯率一割)です。今一番必要なのは、被害者とその家族のケアです。現在、件数がかつてほど多いわけではないので、入院費用などは税金を使うべきなのではないかと思います。 ちはみに今一番多いのは、「横領」つまり「チャリの借りパク」自転車置き場などに置いてある自転車を後で戻せばいいぐらいの意識(借りているという意識)でとり、最終的に持ち帰って返さない行為です。ワイドショーで特集して一番つまらない若者の逸脱でしょう