「普通の国」って

今、広田照幸の本を数冊読んでいます。読み終わったら、文章書きます。ちょっと待ってね。でも、教育論者はたくさんいますが、私が知っている中で彼以外アジテーターだなと思ってしまうぐらい、いかに、テレビやネットの教育論がおかしいかわかります。
今日のお題は「普通の国について」です。私は、前から不思議でした。世界のどの国が普通でまともなのかわからなかったからです。「普通」と言う言葉が「多数」という意味になることがあるので、そこから考えてみると、今の日本より物質がなく満足とはいえない国、という結論がでそうになって、オイオイそれは目指すべきものではないよ、と言いたくなってきた。確かに、大量消費社会はいけないけれど、アフリカや東南アジアにはなれない。では、なにかと「普通」の基準は「アメリカ」だからアメリカみたいになることかなと思ったけれど、日本は大和民族が9割を超える単民族国家に近い存在でアメリカみたいに「サラダボウル」にはなれない、クリスチャンでもない。さすがに、進化論はなかったとかノアの箱船はあったとかいう、レベルに自分を落とすべきではないと思ったのでだめだアメリカモデルも(いいアメリカ人もいっぱいいるんだけどね)。
そこで思い付いた。「普通の国」は、この世に実存しないんじゃないかなと。ならば、アレか。「国民国家(Nation State)」、近代の夢でありいまだかつて100%の成功にいたっていない国家体制。広辞苑曰く「国民的一体性自覚の上に完成」。そっか、他の国ではこれを100%やるのは無理なんだ。他民族すぎるから。数少ない、国民国家に制約のない国が日本なんだ(韓国もかな)。同じ民族、同じ言語、同じ伝統、同じ文化、そして同じ歴史。この「同じ」ものを共有する者の「我らが国」を目指しているんだ。だから、小学校の時から国旗・国歌が叩き込まれ、「国民の歴史」という本ができ、マイナーな考えの排斥がおき、国籍による就職差別がおきるんだ。
でも、「国民国家」って可能なのかな。確かに、人間というものは、意外にみな似たところがある。「他人と同じはいやだけど、まったくちがうのはもっといや」とかいうのとか。しかし、人間はすべて同じではない。えら呼吸する人間はいないし、光合成する人間もいない。しかし、人間はみな少しずつ違う。だから、すべてをみんなで共有することはできない。それが、「普通の国国民国家」の限界なんだ。多様な考えが認められない社会は、その社会が認めている考えが間違っていた場合、停止する。いや、混乱して、自暴自棄になりつぶれていく。
国民国家」が絶対いけないとは言わないけれど、ほどほどにやっていった方がいい。

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