近代と神道 靖国問題を考える

あのアジア太平洋戦争をただの領土拡大戦争と捉えるだけでいいのだろうか?あれは、神道大戦争でもあったのではないだろうか
明治時代、神道はヨーロッパの影響を受け「近代化」した。簡単に言えば、「キリスト教化」したということ。教典を持たなかった神道が「古事記」と「日本書記」という神話を教典とし、「アマテラス」を担ぎ揚げ、「ミカド」は隠居をやめ久々に「あらひとがみ」となった。私が思うに、「アマテラス=ゴット」、「バイブル=神話」、「キリスト=ミカド」となったのではないか。
確かに、日清・日露戦争は列強の北東アジアの支配権のとりあいだっただろう。しかし、その後、日本は各地で神道を布教し始めた。第二次世界大戦では、強制的な布教(学校教育・法律)となった。「八紘一宇」彼らが唱えた言葉である。確かに、この時代にはそぐわない「平等」すら感じさせる。民族宗教ではなく世界宗教としてやっていけそうな気もする。しかし、言われる立場にとってそれはすばらしく聞こえただろうか。日本人にとって宗教は「空気」だが、地域によっては「命」なのだ。場合によっては「死」と同等な意味にもなる。
日本人にわかりやすく例えて言うなら、ヨーロッパ人のキリスト聖教者に日本人もヨーロッパ人もゴッドの下では平等だから神道や仏教からキリスト教に改宗しなさいと言われることと同じである。私は呑めない。
神道によるアジアの解放、世界の解放が戦争の目標ならば、戦没者は「殉教者」である。もちろん彼らには何の罪もない。彼らは、失礼な言い方をすれば騙されてやったにすぎない。キリスト教イスラームの過激派原理主義者に騙されて戦争をする青年達と同じである。そして、騙す側の人間がA級戦犯であったとも言える。もちろん、間違って罰せられた人もいるだろうし、罰せられるべき人(宗教家など)もいるだろう。
殉教者や過激派原理主義者とその仲間を祀る靖国神社は先の強引布教戦争を肯定化しているという批判を避けられないであろう。
本来、私たちは目に見えぬ神々に囲まれて暮らしてきた。神々が私たちに手を加えることがあっても私たちが神々に手を加えるということはなるべく避けてきた。教典も作らなかった。ただ、神のいる森を「鎮守の森」として守るために柵をし、お住まいとしての社を作ったを作っただけであった。しかし、明治時代、私たちは神々に大きく手を加えてしまった。80年後、反省して戻したけれど、まだ戻っていないものもある。神々がお怒りになる前に特例をもって靖国や護国という神社をなくすもしくは変えるべきではないのか、神社本庁靖国を擁護する前に、靖国に改革をうながす必要があるのではないか。
小泉さん、阿部さん悪いことは言わないから参拝やめようよ。国家を代表して失礼なことをする必要はない。神々が日本国という国家を守ってくれるから日本国があるのだから

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