使用者の「愛国心」、奴隷の「愛国心」

「愛」とは、「特別な信用関係」である。なぜなら、対象の物や人に時間を注ぎ込んでも無駄や損失がないと確信があるから。人間の恋愛の場合、ある特定の「愛」ができる前、ある片方Aはその相手を自分と特別な時間を過ごすことに価値がある相手Bだと信用している。しかし、その相手BはまだAを信用していない。だから、AはBを愛そうとする。つまり、AはBに信用されようとしている。そして、お互いの特別な信用関係である「愛」が生まれる
日本は主権在民である。国王の地位にある。では家来は? 公務員である。いや、公務員は国民に使える奴隷なのだ。そして、その奴隷の集合の一つがお役所(政府)である。政府は国民に服従する。政府の国民に対する「愛する行為」は、国民の言われるまま働くことである。それにより、政府は国民の信用を得る。では、国民の政府に対する「愛する行為」とは何か。政府への命令に責任を持つこと、持つために関心を持つこと、命令作成に関わることである。奴隷が奴隷という身分が解かれないまま使用者が雲隠れされることが奴隷にとって一番困るのだ。主権者意識これこそが、国民(使用者)の政府(奴隷)への「愛する行為」なのだ。

確かに、我々はこの奴隷どもに権限を委譲している。一億三千万が集まってものごとを決めることはできないから。だからといって何でも許される訳ではない。あくまで、奴隷である政府が使用者である国民を束縛できるのは、その国民が他の国民に害を与えている時だけである。ならば、使用者が奴隷を愛するような「愛する行為」を奴隷が使用者に求め、使用者を束縛することは本来できない。「奴隷」を「奴隷」として扱うことにどの使用者も損をしない。そして、奴隷に少しでも温情を与えることは、奴隷と使用者の立場の入れ替える余地を与えてしまう。使用者は奴隷に対して、マキャベリズムであるべきである慈悲ある使用者はいらない
公務員はcivil servants(市民の奴隷) であれ(あくまで職務の間。職務を解かれた時、他の自由人と同じである)