自分は他人を批判できるのか

 私は、日常的に石原慎太郎を批判してきたし、彼と自分は違うと思ってきた。自分は、「ネット右翼」という言葉を使わないぐらい言葉には十分気をつけてきたつもりであった。しかしながら、それは自分の偽善でありただの自己満足ではないかと今日思った。
 つい先ほど、私は自らの日本語に対する責任を放置した。言葉について何の配慮もはらわなかった。ICUは、データの割合以上に留学生に出会うところである。彼らの話題になることも多い。そこで私は彼らに対し「外人」という言葉を使ってしまった。その問題は、友達に指摘されるまで気づかなかった。「外国人」と「外人」この言葉の差が何かご存知であろうか?? 私は詳しくは知らないが、「外人」とは「外の人」つまり排除の対象である。そういう意味あいがある言葉なのである。通常は「外国人」とか学内なら「留学生」とか使うべきなのだ。言葉は心を表すと誰が言ったかなんか知らないが、その言葉の選択は自分の心が表れていると言えるのではないか。指摘された瞬間、自分の中で壁が崩れたというかそれぐらいの衝撃があった。やはり、自分は石原と同じだ。
 人に自分ができないことを押し付けれるかどうか?? それは許せられるのか。それは、核を持ちながら核廃絶を他国に呼びかけるアメリカ政府と何が違うのか?? つまり偽善だ。韓国の学生と3年間付き合いがあり裏に留学生が住んでいる自分がこんな発言をすることは、小説家という言葉のプロである石原慎太郎が「三国人」ということと同じことだ。日常から気をつけない限り、言葉は心は変わらないのだ


中部大学 国際理解短歌コンクール 特 別 賞 国際言語文化賞 高校生部門

“外人”と “外国人”の 差はひとつ のけ者扱い するかしないか

この歌に、半年前に出会っているにもかかわらず・・・