学問以前 教育基本法

政治編のねたを持ってきました

「現在、自由民主党公明党の中で、教育基本法
国と郷土を愛する心」とかなんとかを
載せようとする動きがあるらしい。 なんでもけちをつけたいつよぽん
「愛」って「国」って「郷土」って
何かって考えてみる。

「愛」は「愛情」と「友情」の違いに戸惑っているからパス

「国」と「郷土」について少し書いてみる。
自分にとって郷土とはどこまでを指すのか。
少なくとも日本全体はありえない。
行ったことのないところをふるさととは言いたくない。

では、都道府県は?
いったことのあるところも多いが一度しか行ったことのないところに愛着は感じない。

では、市町村は?
私は巨大な市に住んでいたので市の反対側はあまり知らないし、俺のふるさとだといっては怒られる気がする。

ではもっと狭めて学区はどうだろうか?
おおよそ、よく歩き回る地域は故郷として思い入れがある。
行ったことのないあたりは、あまり愛着はない。

郷土とは、その人の生活圏内である。

では国は??
「国」には「国家」「国土」などさまざまな意味合いがこめられる。
「国民の〜」とかいう本も多くありそうだが、

国民は一つのものを共有しているといえるだろうか。

外国人に、日本について尋ねると「フジヤマ・ゲイシ」だ

というのはどこまで事実かわからないが
日本の国の象徴とされる富士山・芸者を一般の日本にいる人間はどこまで接しているだろうか。

私は、芸者を直接見たことがない。テレビで見るだけ。

その頻度も、自分が遊ぶゲームのキャラクターを見る回数より低い。いわば、
自分にとって芸者は想像上のもの(バーチャル)なのだ。

富士山も直接見た回数は5回を超えない。実家の裏に住んでいる留学生に合う回数のほうがよっぽど多い。
日本中には「○○富士」というのが多数あるけれど、現地の人は本物の富士山を見ているのではなく「○○富士」であり愛着を感じているのも「○○富士」であって「富士山」そのものではない。(富士山は静岡県民など富士山が見える人にとっては郷土だろうし、芸者も京都の人にとっては伝統である)
 教えられる日本の伝統に「富士山・芸者」が入るかは知らないが、見たことも接点もないものをあたかも故郷の文化のように教えることは、現地文化の破壊であり新しい伝統の創造である。

そもそも、「郷土」は、教室で教えれるもののだろうか??

教えられなきゃわからないものなのかという問題何を教えるのかという問題がある。私の町では、

開店祝いの花を持ち帰る文化
があるが、これも教室で教えるのだろうか。郷土愛教育に郷土史があるだろうが、もしつい最近埋め立てられた埋め立て地に暮らしている人はどうすればいいのか。
となりの地域の歴史でも学んでいろと??

政治編のねたを持ってきました

「現在、自由民主党公明党の中で、教育基本法
国と郷土を愛する心」とかなんとかを
載せようとする動きがあるらしい。 なんでもけちをつけたいつよぽん
「愛」って「国」って「郷土」って
何かって考えてみる。

「愛」は「愛情」と「友情」の違いに戸惑っているからパス

「国」と「郷土」について少し書いてみる。
自分にとって郷土とはどこまでを指すのか。
少なくとも日本全体はありえない。
行ったことのないところをふるさととは言いたくない。

では、都道府県は?
いったことのあるところも多いが一度しか行ったことのないところに愛着は感じない。

では、市町村は?
私は巨大な市に住んでいたので市の反対側はあまり知らないし、俺のふるさとだといっては怒られる気がする。

ではもっと狭めて学区はどうだろうか?
おおよそ、よく歩き回る地域は故郷として思い入れがある。
行ったことのないあたりは、あまり愛着はない。

郷土とは、その人の生活圏内である。

では国は??
「国」には「国家」「国土」などさまざまな意味合いがこめられる。
「国民の〜」とかいう本も多くありそうだが、

国民は一つのものを共有しているといえるだろうか。

外国人に、日本について尋ねると「フジヤマ・ゲイシ」だ

というのはどこまで事実かわからないが
日本の国の象徴とされる富士山・芸者を一般の日本にいる人間はどこまで接しているだろうか。

私は、芸者を直接見たことがない。テレビで見るだけ。

その頻度も、自分が遊ぶゲームのキャラクターを見る回数より低い。いわば、
自分にとって芸者は想像上のもの(バーチャル)なのだ。

富士山も直接見た回数は5回を超えない。実家の裏に住んでいる留学生に合う回数のほうがよっぽど多い。
日本中には「○○富士」というのが多数あるけれど、現地の人は本物の富士山を見ているのではなく「○○富士」であり愛着を感じているのも「○○富士」であって「富士山」そのものではない。(富士山は静岡県民など富士山が見える人にとっては郷土だろうし、芸者も京都の人にとっては伝統である)
 教えられる日本の伝統に「富士山・芸者」が入るかは知らないが、見たことも接点もないものをあたかも故郷の文化のように教えることは、現地文化の破壊であり新しい伝統の創造である。

そもそも、「郷土」は、教室で教えれるもののだろうか??

教えられなきゃわからないものなのかという問題何を教えるのかという問題がある。私の町では、

開店祝いの花を持ち帰る文化
があるが、これも教室で教えるのだろうか。郷土愛教育に郷土史があるだろうが、もしつい最近埋め立てられた埋め立て地に暮らしている人はどうすればいいのか。
となりの地域の歴史でも学んでいろと??