「嫌韓流」と「嫌日流」 似た者同士のいがみ合いから見えるもの。

かつて、私の別のブログで「嫌韓流」なる漫画を取り上げたことがある。内容は、「明治時代的文化感」(その当時の人間にとって仕方ないにしても、現代人がこれをやってはいけない。)と「論理のたてかたの間違い」(都市部の近代化を絶対的に善とするなど。一方で都市と地域の貧富の格差を生み出す可能性がある)と「無知」にあふれていた。少なくとも、歴史解説書としては到底認められないものであった。歴史学者の「作る会の歴史教科書」への批判のような批判はなく、一部のウェブ住人から賞賛を浴びていた。そんな中、一つのニュースが飛び込んできた。韓国で「嫌日流」とやらいう本が出るという。そのタイトルを見るだけで嫌気がさしてきた。二つの本に共通する感情論「嫌」である。つまり、「科学性」を欠いた「嫌韓流」と同レベルということである。永遠な水掛け論が続くことを確信した。いや、これまで続いてきたのだ。もちろん、歴史は人間が刻むもの、人間の感情になされるものである。しかし、一秒一秒人間の感情は変わり続けるもので、後の人間には想像しづらいものである。ならば、筋道を立て冷静に考えるしかないのではないだろうか。しかし、インターネットという極めて「科学的」な空間で「感情論」が吹き荒れている、という現状が続いている。
では、日韓のネット論客は、相手をちゃんと認識しているだろうか。私には、お互いネット空間に写った「虚像」を批判しているようにしか思えない。相手が、自分と同じ人間であることを忘れている気がする。日本人のネット論客の要素と韓国人のネット論客の要素は、ほぼ同じだと思う。なぜなら、まず遺伝子的に、チンパンジーと人間の差が一割をきるという説が正しいなら、日本人と韓国人の差は極めて0に近い。文化的には、柵封を受けた受けないの差はあれど基本的に中華文化圏である。その証拠に、両国には陰陽道儒教という中国由来のものが残っている。そして、両国のネット論客の「理論」の進め方は似ているものがある。彼らは全く別の存在だから対立するのではなく、むしろ同じだから反発しあうのではないだろうか。
もし、両者がお互いの「実像」を見たら共有できるものが多いのではないだろうか。一つの例えを出そう。私は、自らは極めて資本主義的な社会主義社会民主主義」の論者である。しかし、私を含む多くの社会民主主義論者に対しての「反マルクス」的な批判が多く存在していることに疑問を持っていた。きっと多くの人の頭に「左派=マルクス主義」という考えがあるのだろう。しかし、これは同じ左派の「社会民主主義」と「科学的社会主義マルクス主義)」の差異を無視していると思う。そんななか、ある過去問から保守論客として有名な西尾幹二先生の文章にあたった。「木」は存在せず、「杉」や「松」があり、それもまた存在せず、個々の木が存在するだけだという理論に共感した。「左派」という「木」は存在せず、「社会民主主義」という「杉」また存在せず、ただ「つよぽん」という個別な木が存在するだけだという理論である。しかし、西尾先生とは歴史認識、政治認識では異なるものを持っている。しかし、共感するものを持ちえたのだ。
「虚像」で相手を判断することをやむよ。相手の他の面を知れ。そうすれば、「実像」が見えてくる。とは言え、私も他人の「実像」はまだ見えていないのだが。

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